その店は盛り場の外れにある
カウンターだけの小さなスナック
思い思いに歌うことができる
よくある店
ただひとつ違うのは
店主の女性
皆がじっと聞き耳を立てるその声は
歌姫
陳腐な表現だけど
そんなふうに
感じる
その歌声は奇跡だった
店主が言った
あなたも歌いなさいよ
僕はへたくそだから聞くだけでいいです
ムッとしたように店主は言った
なんのためにここに来たの
私と一緒に歌うのよ
とんでもない
店主は勝手に歌を選んでいた
こんな難しい歌
僕に歌えるはずがない
店主はお構いなしに歌いはじめた
なぜか僕の大好きな曲だった
好き
素敵な曲
僕は店主の歌う姿をじっと見つめていた
なぜだか僕は不意に目の前にあったマイクを持った
自分でも分けがわからなかった
僕は店主と一緒に歌っていた
好き 好き 好き
店主の歌声にリードされて
こんなに難しい歌なのに
僕は歌と歌詞とひとつになって
そして店主とひとつになって歌っていた
歌い終わると
店主はへへんと言う顔で僕を見ていた
わかったでしょ
これが歌よ
そういうと
店主は違う客のところに行ってしまった
僕は店を出た
高揚した顔に夜風が気持ちよかった
歌は聞くもの
外出する時はいつもヘッドホン
電車の中でもみんなそう
歌が好きだから
でも違った
当たり前だけど歌は歌うものだった
何百年も前からそう
テレビで見るどこかの原住民だってそう
歌は特別の人のものではない
歌は歌い引き継がれていくもの
だから歌詞がある
僕は歌をはじめて知った
そんな夏の夜だった